出石寺略縁起

お手引きの鹿と略縁起

境内の鹿の像に、由来として略縁起がございます。

『金山出石寺の開創は…

元正天皇の御代養老二年(七一八)六月十七日であります。旧宇和郷の猟師、作右衛門が一日狩りに出て、一匹の鹿を見つけ後を追う中遂にこの山に迷い込んでしまいました。

すると突然暗雲低迷天地鳴動し…光明赫々と輝き鹿の姿はかき消すように見えなくなりました。作右衛門はあまりの恐ろしさに大地にひれ伏していましたが鳴動もやみ静かに顔を上げると、先程の鹿の姿はなく鹿の立っていた足許の岩が真二つに割れ、暗雲の中より一條の光に照らし出された御仏、千手観世音菩薩の…

お姿が地上に湧出し、金色燦然たる光を放っていました。作右衛門は、殺生を業とする生活を懺悔し妻子に別れ仏門に入り、名を道教と改め仏像傍に庵をかまえ一生をささげ送ったのであります。

以上が金山出石寺開山縁起ですが作右衛門は正しく鹿に導かれて観音様との御縁を戴いたのであります。

今回観音様の御慈悲を慕い御手引鹿の徳を讃仰して永く後世に伝えんがためこの銅像を建立した次第です。

 

 

             昭和五十三年六月吉日』


出石寺に伝わる文書より

出石寺に伝わる文書から縁起を繙くと

 写真は中興28世、神山諦鑁上人の追想録より出石寺の歴史について。

 当山の開基は今を遡る一千三百年、養老二年(西暦718)六月十七日、道教法師の開基と伝えられて居る。

 宇和旧記その他を案ずるに、道教法師は宇和郷田中村に住む猟師作右ヱ門であった。

 一日出猟して終日一物を得ず彷徨せる彼は一匹の鹿を発見し、これを追って此山に入り山頂に近づいた時、全山振動して異香ただよい、光明赫々として輝き、見失った鹿のあたりの岩石裂けて千手観音と地蔵菩薩の尊像が大地から湧き出られたのを拝した。

 作右ヱ門はこの不思議に遭遇して、生けるものの生命を奪って身命をつなぐ自己を反省して、我昔所造諸悪業と五体を地に投げ、弓矢を捨てて、入道して名を道教と改め、終生この「ハエヌケ」の御仏に仕え、これを伝え聞いた庶人は四方より雲集して草庵日ならずして成り雲峰山出石寺と名付けた。

 その後その妻子と兄弟は磯崎浦に移り住み現主潤一氏に至るまで七十一代、男子の相続者絶えることがなかったと伝えられ信ぜられている。(男子相続者絶えずは本当です)

 初めて御堂建立の時、ハエヌケの御仏は次第に御長高くならせ給うがゆえ、毎月屋根を破っては伸び上がるので大工は腹を立てて、御頭を槌で打ち奉れば、槌は二つに割れて飛び散りて落ちた所が上槌谷、下槌谷であって、日土の地名は飛槌から来たと伝えられ、この時御仏は地中へちぢまられ、御足は伸びて十三里の佐田の御崎となったと宇和旧記に見えている。

 弘法大師は此山に登り、今の段文前の巨石郡の一つを選んで壇とし、入唐伝来の護摩供を修法せられたので、その巨石を護摩ヶ石(いわ)と伝えている。

 大師はここに熊野権現を勧請して鎮守とし、この幽境を喜び、三国無双の金山と嘆じ、山号を金山と改められた(宇和旧記)

 大師の御書「三教指帰」に「登金巖而遇雪坎壈」(金巖に字註として加禰能太気”カネノタケ”)とあるのは御若き修行の時期に、伊予出石寺まで御登山され、雪の降る中苦労されながらも強くご記憶に残られたものと思われる。

 (三教指帰に自らの字註というのは、下書きである聾瞽指帰に残る、金巌という熟語の読みのことである。)


秘仏本尊

弘法大師の御手により、「ハエヌケ」の観音様は秘仏とされました。

理由は、『末世不信の輩、邪見謗法の者ありて、冥罰を被らん事を恐る』とのこと。

それは直視を必ずしも良しとはされなかったということです。

見えるものだけを信じている気分になり、見えない物、今は信じ難いというだけで、それを受け容れず、批判して貶しめようとしてしまう人が増える…

その様な時代に、今我々人類は差し掛かっています。

(もちろんその逆の人々も増えていますが)

見えない医学を、裸眼では詳細まで見えない世界を説明する科学と化学をあれ程信頼し、信奉しているのにです…

観音様はどれ程離れていても、どんな時でも、自在に観(み)て、世音(祈りの声、心の声)を観察します。そのお力にすがるのならば、見える見えないなど、どれ程の妨げでしょう。

タダの像に力など無いと云う(無神論者の)方はご自分の力で何でもどんなことでもできるでしょう。

そうではないなら、心から助けられようと願いましょう。いつでも、どこからでも。

時節と都合と様々が合致すればその時本堂まで御礼拝に行くのが良いです。

三度と云わず、お助け下さると思います。

 

写真は大きい方のお御影です。

 


かつてより別格霊場経由の出石寺縁起には、

『…岩が真二つに割れ、千手観世音菩薩・地蔵菩薩の像が地中から湧き出して…』として頂いております。
いつであったか本堂内をいくら見渡しても地蔵菩薩さまが見えないと素朴な疑問を頂きました。
思えば年間数度しかない御開帳の折には、略縁起として奉読させて頂きます中に『…二菩薩の尊像自然に湧出し給うを拝す』と、御真言も唱えさせて頂きます。しかし、リーフレットにもお手引きの鹿の像の看板にも標示が無いとのことでありました。
印刷物としては二種、別格霊場案内地図帳の他は当山先師諦真老師・諦鑁老師の各追想録のみでありました。(その他有無不明)
先師から静かに伝えられておりました伝承では、「地蔵菩薩様は前仏千手観世音菩薩像様に胎内仏として居られる」との事でした。
それでも堂前や各種表示には千手観世のみ を通していたのは、常には見えざる本尊ゆえに、唯一御尊顔を拝するご開帳という機会を(に)目立たせていたのかもしれません。つまりは、ご開帳に出会ってはじめて千手観音様と一緒に地蔵菩薩様を明らかに拝している事が、なんとなくわかるかもしれないという考え方であります。
つまりは、この言い訳のような駄文を記憶に留められた御賢聖に至っては、地蔵菩薩様の御真言も続けてお唱え頂きますと
更に仏徳報恩威光倍増の利益あらん と信ずるところでございます。